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自分らしく生きることについて考える
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<自分らしく>という概念は、まず自分という存在がいかなるものか?ということに対して大いに興味を持つことから始まらなくてはならないだろう。殆どの人々は、あたかも自分という存在が自らの裡に自然と備わっているものと錯誤している場合が多いと思われる。
しかし、よく考えてみると、自分とは何か?という問題に真正面から向き合ったことのある人はかなりな思索家なのである。また言葉を換えて言えば、自分に対する興味を深く抱いている人々でもある。
そんなことは当たり前であるかのように感じている人が多いと推察されるが、実はそうではない。現実には、自己の内面に対して無関心な人がどれほど多いことか!あるいは、自分の置かれた環境から何かを学び取り、それを自己の思想とする内面化のエネルギーが如何に欠けていることか!
だからはっきりと言えることは<自分らしく生きる>などという考え方が生み出されるのは、かなり観念的で思いつきのような状況のもとで生起する事柄なのである。
世の中に氾濫するように存在する啓発本の中には<自分らしく>という表現が惜しげもなく読者に対して投げつけられるのである。しかし、たとえいっときこの種の本から某かの気づきのごとき感覚を得たにしても、本来啓発本に飛びつくような人の中には、自分という本質に深い興味が別段あるわけではないのである。
精神が落ち込まない人などこの世に存在しないが、その一方で、多くの人々はかりそめの癒しを求めて止まないのも現実である。自己の姿に真剣に対峙する勇気のない人々にとっては、かりそめの癒しが適当だが、そのような自助努力の伴わない安逸な癒しが、精神の深みに嵌まった人々を救えるはずがないのは当然である。
現代はお気楽な癒しブームである。
つまらない現象だと思うが、このような刹那的な錯誤の中でしか生きられないのが現代という実像でもある。それならば、はっきりと現代社会のお気楽な風潮に抗って、言葉どおりの<自分らしさ>を求めてもよいのではなかろうか?
そうするには勿論痛みが伴うのは必然である。何故なら、<自分らしさ>の自主独立した概念の確立のためには、自分の過去の総体と向き合う必要があるからである。
このような精神的な作業はかなりな力業が求められる。自分の過去の生きざまの大半を捨て去らねばならない人の中には、当然のように本来の自分らしさから逃避する傾向がある。
こういう人々に救いは訪れることはない。特に家族関係の中における母子関係あるいは父子関係における依存的な心のありようは、そこに居座ってさえいれば居心地が悪くはない分、精神的自立が出来ないのである。
このような人々にとっての<自分らしさ>とは、依存の対象者である母親か父親の焼き直しの別称である。
親と子どもの共依存関係は、まず間違いなく孫の世代までは少なくとも受け継がれる。
一個の人間としてこの世界において自立出来ない不幸は、永遠に<自分らしく生きる>可能性を自ら葬っているとても不幸な人々である。
所謂、精神疾患の原因の多くは、精神的自立が出来ないがゆえに、つまりは<自分らしく生きる>ことを放棄していることにその種があり、悪い種を断ち切れないとするなら、蒔かれた種は循環しながら後生に引き継がれることになるのである。
勇気を持とうではないか!自分の内面と向き合って、そこに生きることのつらさが潜んでいるならば、抱え持っているつらさをも内面化する精神のダイナミズムを持たねば、人はいつまでも救われることなく、またなぜ自分が苦しいのかも分からないままに生涯を閉じるハメになる。
少しの勇気と自己の内面の中に巣くった現実を直視することから始めればよい。
そこから新たな生の可能性は無限に広がってくるのではないだろうか。
そのように僕は確信する。
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○推薦図書○
「「彼女たち」の連合赤軍ーサブカルチャーと戦後民主主義」
大塚英志著。角川文庫。
連合赤軍とはいったい何なのかもわからない若い人々が大半でしょうが、
戦後という時代を大きな視点で読みながら、その中で、精神的自立を果た
せなかった本来優秀であったはずの人々が何故人間らしさを失っていった
のかを読み解くことで、みなさんの将来に役立つことが多々発見できる
はずです。ぜひどうぞ。
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長野 安晃カウンセラー
京都カウンセリングルーム
(京都府)
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えらっそうに (2008/11/07 18:44)
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